『新学期』読んだ

新学期 (河出文庫)

新学期 (河出文庫)

文庫になったので長野まゆみの『新学期』を読んだ。陣野俊史による解説が若干冗長ではあるが面白い。

 二つの重要なことが語られている。一つは、長野さんの小説には、内面が描かれていないということ。これは八〇年代に学生だった者、あんまり世代論をやりたくはないのだが、いわゆる「新人類」と呼ばれた世代に共通する特徴の一つかもしれない。内面などない。語るべき内面があらかじめあるのではない。仮にその小説に内面が感じられるとすれば、それは語ることによって作られた内面なのだ、という共通了解だ。表面にとどまる、という言い方をしてもいい。
 ところが、最近の若い読者は、内面を求める。自分たちの内面の不安を登場人物の内面に投射したがる傾向がある。共感の共同体を作りたいと願っている。だから登場人物には内面の悩みを抱えていてほしいのだ。
 新人類世代の、表面にとどまる身の処し方がドラスティックに変化した時期こそ、おそらく九五年だったと私は思っているが、今の若い人の抱える内面の不安は、九五年から地続きだと思う。だから小説の読み方は変化している。長野さんの作品にまで内面を求めてしまう。そして「何かが足りない」とつい口走ってしまったりするのだ。

自分はどちらかというと「表面にとどまる」派だったりして、小説にしろ詩にしろ中身なんてなくてよいと思っている。内面を求めて、ああでもないこうでもないと考えるのは読む側の自由。それでいい。

この世界の中でぼくたちは不可分に生きていて、いろいろな些細な風景に惑わされながら歩いていく。今日も明日も、たぶんその次の日も。